ドイツ人 哲学者 カルシュ博士の残したもの

1927年 松江から軽井沢への旅行の途中で撮影した富士山

自由の雰囲気が定着したかに見えた大正末期から昭和初期にかけてのことである。日本は経済状況の悪化の過程で、徐々にその社会の枠組が変遷しつつあった。その頃がカルシュの日本で活躍した時代である。カルシュにとって仮の栖であったはずの日本に、思いがけず長期間滞在することになり、人々と交わるなかで、彼の心の内が少しずつ変化していった。カルシュが日本に来てみると、彼の求めていた精神的な拠り所が、自分の住居のあった松江や山陰地方だけでなく、日本の各地に息づいているのを見た。そこには必ずといってよいほど、人の生活の本質的欲求である、近隣が寄り添ってつくる小さな共同体の輪が存在し、人々は相互依存の形の中で暮らしていた。
ヨーロッパの合理主義、能率主義から離れた心の余裕、行動のゆとり、遊び心や日本の伝統文化から醸し出される安らぎと人々の生活感を松江での現実の生活のなかに見出したのである。豊富な自然の様相と身の周りの現象の背後に潜む、優しさとしなやかさがカルシュの心を捉えた。時には畏れをも抱かせ、微笑みかけ、暖かい息吹を人々の生活の中に与えてくれる。日本人が神々と呼ぶ大きな力と愛に満ちあふれた存在を彼が訪れた至る所でおそらく感じ取ったのであろう。ヨーロッパの一神教的な発想の窮屈さに比べて、日本の神々は人の能力を超越した絶対的存在でありながら、日常に密着した極めて身近な人間性が投影された姿で、空想と現実が入り混じった世界を自由自在に動き回っている。そんなものを感じたのであろう。そしてそれが日本の姿であり、西洋の文明というやや制度的側面から構築された常識から見て、発展が遅れているとみなしていた日本社会が実は美意識に優れた、活力溢れる愛すべき世界であった。そこには、果敢に取り入れた西洋文明のなかに、古き洗練された固有の文化が調和のとれた形で存在していた。しかし、そんな人工の響きを全く感じさせない大地の鼓動に耳をそばだてながら、宗教心が篤く美しさを求めて生きる礼儀正しい人々に数多く接したのであろう。そして、人が生きる上での本質を発見し、西洋とは全く違ったバランスのとれた独特の雰囲気の中に、穏やかな日本的寛容さと自分の求めていた世界を見たのであろう。
他人に対する寛容性を欠いた発想と厳密性を主張することによる文明の優越性を主張する西洋の姿を自負し、それを世界に拡大することこそが自らの役目と思っていた西洋の人々の生き方は、この地の人々にあっては根本的に様子が違っていた。そうした違いをカルシュは日本での生活を通して、徐々に体得していったのであろう。このことは、彼が第一次世界大戦で従軍を経験し、心が傷つき、互いの争いに心の痛みをいつも感じながら、工学から宗教や哲学に心を寄せ、自らの学問の興味を懸命に維持し続けてきたことと無縁ではない。カルシュが瞑想したり、散歩したり、絵を描く日常の姿が眼に見えるようである。したがって、新形而上学と呼ばれた学問の担い手で恩師でもあったニコライ・ハルトマン教授の元を離れて、ルドルフ・シュタイナー博士が展開した一連の体系である人智学に徐々に傾斜していったのはむしろ当然の成り行きであった。
諸々の研究者の解釈によれば、人智学は冷静な意識・思考・実践を通して自身の認識力を拡大し、通常の感覚では捉えられない世界の認識を目指すものである。しかし、その過程は神からの啓示とか絶対者への帰依によるものではなく、思考と修業の具体的活動からなるというように、古来の日本の宗教的体験に通じるものがあった。個々の人間の精神は永遠であり、繰り返し地上の身体の中に再生すると考え、精神はその中で次第に成熟度を深め、やがて自らの姿と世界との関わり合いを認識し、真に自由で自覚的な参加者となるという。この過程の中で適切な指導があって、子供は健全に成長し、真の姿の認識に向けて発達を続けてゆくことができるという教育思想に連なるものである。同様な社会的状況が推移する昨今、教育の荒廃は各所で懸念され、戦後変更を余儀なくされた教育内容のこれまでの歩みはともかく、現在におけるその内容の是非の論議が各所で呼び起こされている。もしかしたら、今日問題になっている教育を考える上で、このことは参考になるかも知れない。
この思想の流れは、当時、二元論的世界観を斥け、心理主義的な思想が流行していたこととは決して無縁ではないし、カルシュが後に日本で仏教や禅に大きな関心をもつようになったのも容易に納得できることである。 その理論は、人の生涯全体を実践の連鎖ととらえ、同時に、心や本性の細部に配慮したものである。この思考を基礎とする人智学にカルシュが傾いていったのも、弱者が苦痛を味わないような心の支えがあって正しく生きられるという、人間的な社会の実現を彼が志していたからであろう。
したがって、そうした背景をもつ日本の中の共同体とその源流たる日本の伝統文化におそらく限りない安らぎをみたのであろう。  

1926年 松江高校の同僚のt多田義延宅にて

そのような感性をもつカルシュの純粋な思考と実践が当時の高校生の生活に与えた影響との関連には、どうやら現在の教育に欠けている事柄が何であるかについて少なからず示唆がある。とくに、カルシュの行った授業で生徒とのやりとりのなかには、異質の文化に積極的に触れようとする進取の機に富んだ生徒の学習経過に自分が信奉する人智学の説く人間形成の関与を実践的に組み入れようとの努力が常に窺われる。つまり、生徒の将来をいつも見据えて、周囲や世界を大きく見ようとしている気概と高い自らの成功志向の生徒の成長をカルシュが暖かく見守っていた。生徒から本当に慕われていた教師が、大学とは異なる当時の高校の役割を考え、教育はもちろんのこと、日常的な交流を通して、実践的人間形成を体現していたのである。固定した形式にとらわれない、そうした教師とその象徴でもあったカルシュが教育に参画し、しかも伝統文化を重んじる人々が松江高校周辺に存在していたことに大きな意味があった。
繰り返しになるが、カルシュが物質文明を謳歌する世の動きに従って、最初は当時の流行であった電気通信工学の知識を生かすために志願兵として大戦に参加したことがある。そこで、本質的な人間の生き方を考えた末に彼が宗教と哲学に傾倒し、やがてシュタイナーに興味が移り、日本に来てからは日本人の鷹揚なものの捉え方に関心をもつようになったのは偶然ではない。カルシュにとって、何故比叡山での瞑想であったのであろうか、なぜ古代世界なのか、仮象の世界なのか。大きく心が引かれたのは、おそらくそれらが脈々と息づく出雲地方にその実像を心に安らぎとともに見出すことができて、またそこに入って行く中で、宗教心に密着した、自然の美しさと生活様式の美しさが自分の心に映ったことによるのであろう。
彼は折に触れて、日本の類い希な自然の美しさを語っている。その結果として、多くの風景画や想像画を残しているし、自分が接した生徒に自分の美意識と思いも伝えていったのであろう。  

生徒に贈ったカルシュ博士自身の毛筆によるニーチエの言葉 松江市在住の前田俊明氏所蔵

ところで、旧制高校がカルシュにとっても松江にとっても、もちろん総てではないが、周辺に居た人々の高校への想いが生徒やカルシュを通して、これほど正確に多く語られているのは注目に値する。例えば、シュペンクラー、ニーチェ、マルクスなど著名な哲学者についてカルシュが語った講義の内容は、生徒の心の中で、なお細部にわたって思い出せると当時の生徒であった亡き宮田正信滋賀大名誉教授が語っていた。そのような講義はカルシュだけに限るものではなく、すべての教師によって行われていたという。生徒にとっては、この時期は人生の成長期の大切な一こまであり、 先生、先輩、級友の関係は格別であった。また、松江の人々の純朴な親しみを肌に感じながら、そしてロマンスを夢見ながら過ごした時期であった。この時の諸々の経験は心の宝物であって、大人になってからの行動原理の源であったというほどである。
自由の意味を知り、友情の価値を悟り、大人の世界に少しずつ足を踏み入れて、希望に燃えた時期であったという。独特の自由の気風を背景に、天下国家を論じ、大学進学を優先的に認められ、大らかなエリート意識と深い友情の鎖が脈々と維持されてきたという。高校での自由の精神と三年間に生まれた友情の絆は、生涯の折々に、命の糧として、大きな支えとなって連綿として繋がってきた。そんな松江の三春は青春そのものであり、教室で、校庭でそして町中で、何ものにも換え難い美しい交わりと貴い自由を感じたものであった。
当時内外の社会には不況が拡がり、左右の争いが激化し、革命思想が頭を擡げ、治安維持法強化の所産的事件が続出するような暗い世情に傾きつつあったが、成長期の彼らは自我の認識を強め、大人への精神的脱皮に進んだ貴重な時期でもあった。そして戦争を体験した後、昭和後期の経済繁栄とそれを支えたのが当時の教育環境であり、そこで育った自分たちであった。そう語る人々が、そのときの教育の象徴としてか、カルシュの話題に自然にのめり込むのを筆者が繰り返し目撃した。
ところで、筆者は、カルシュ博士の存在を偶然に知り、僅かな手掛かりを辿って事実を発掘し、足跡を追跡する中で彼の偉大さを知った。時に、奇しくも、筆者の関係するドイツ学術交流会が創設され、ドイツが世界と本格的な学術交流を始めた大正14年はカルシュ博士が来日した年でもある。来年は日本では周知のように『日独修好150年』にあたり、特に日本との関係を重視した催し物が各地で行われる。日本をこよなく愛し、多くの人材を育成したカルシュ博士は戦中・戦後の混乱時に埋もれ、殆どの日本人がその存在すら知らない状況にある。このように時期が熟している今こそ、カルシュを正しく知ってもらう好機であると思っている。彼は直接に接したことのある人以外には、残念ながら名の知られていない哲学者である。それは戦中戦後の混乱によるところが大きいが、とにかく評価の機会がなかったからである。したがって、いま博士の隠れた功績を発掘してまとめて、同時に彼の縁者の生の声などを統一的に記録して置かなければ、遠からずして、すべてが記憶から消滅する運命にある。
最初に私の手許にあったのはカルシュの次女のフリーデルンが記した彼女の住所だけであった。そこから、芋蔓式に色々な事実を眼前に手繰り寄せた。その事実の間に絡まる縁の不思議さに驚きとロマンを感じ、今更のごとく感慨に耽るものである。そして、調査のさなか旧制松江高校から輩出した多くの人材を知るに及んで、異質の文化に密度濃く接することが若者の成長に如何に重要であるかを痛感した。とくに、人の心に余裕を生み出すものが何かを、戦後の社会再建に貢献した旧制高校卒業生の姿と言動から、そして若き日の行動からどうやら外観が推測できる。
とにかく、当時の教育に見えることは、周囲との密な接触、未熟者同士の接触と相互の刺激と自由な議論の姿であり、このなかでの己の価値観の発芽がやがて開花したことである。もちろん己の意志で己の道を見いだすことは、容易ではなかったであろうが、悩みながらもやがて見出すべくその下地を当時の教育環境に見ることができる。一旦心に確信した価値観を具現すべく方法を自ら探求する努力を苦労はあっても自然な形で行ってきたようだ。生徒達の手記を熟読するなかにも、先生と生徒の双方が作用しあって、ともに精神の高揚をみたことが容易に推測される。
現在、筆者は日本人研究者による「カルシュの研究」の呼びかけを行うだけでなく、関連資料の永久保存を関係者に提言している。具体的にはカルシュの永久記念のために記念館を創設したいと思っている。というのもカルシュの残した書籍、膨大な研究成果や絵画、写真、家具調度をそこに納めることを願うからである。そして、筆者がこれまでに収集した資料は、カルシュの顕彰を願って刊行物に纏め上げて世の中に供することを考えている。
調査の初期に資料の提供や旧生徒との橋渡しを献身的に務めてくれたのが、旧制松江高校九期生で当時のクラス総代であった故白石磷氏である。『昭和初期の高校教育が我々の生活にどう関わってきたのか』について、同じ道を歩んだ同期生とともに、この言葉を小生だけでなく後世の人々にも伝え、問いかけたいと胸を張って語っていたことを結びの言葉としたい。 

関連記事  歴史の狭間に埋もれた教育界の偉人・カルシュ博士 2010年 5月 15日 http://www.janjanblog.com/archives/2315

若松秀俊記者のプロフィール

東京医科歯科大学 保健衛生学研究科教授です。専門は医用生体工学、医療福祉遠隔システム工学です。実際に脳低温制御の自動化システムおよびユーザが特別なソフトウエアと費用を必要としない福祉通信システムの開発・実用化を行っています。

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