恥ずかしくないのか「御用文化人」
先週、所用で福島市に立ち寄り、東京とは違う緊張が漂っていることを改めて感じた。写真は福島駅に掲示してあったポスターである。生活の基盤がある地元を簡単に去るわけにはゆかないが、放射線の不安を拭うことができない福島の人たちの困惑が伝わる右側のポスターである。ところで左側の勝間和代氏の講演はどうだろう。地震直後の3月26日のテレビ放映(『朝まで生テレビ』)では放射線の影響を過小評価する軽率な発言を批判された勝間氏だが、なぜ福島で平然と講演できるのか理解しがたい。3月の段階では、誰にとってもあらゆる情報がまだ不確実だったので、発言の内容が検討不足でもあるていどは許容できるとしても、11月になっても勝間氏はまだわけのわからないことを言っているのである。
11月13日に開催予定の「東日本女子駅伝」について、山本太郎氏が中高生のランナーを主とする同大会は中止すべきであるとして勝間氏と討論(*1)した際に、またも勝間氏が不適切な発言をしている。それは「確率的影響に対する感受性って人によって違うので、その事実を開示したうえで主催者なり走る本人たちが選ぶ問題だと思う」という部分である。低線量被爆の影響について、確率的影響に対する感受性は個人差があるという点までは事実だが、「主催者や本人が選ぶ問題」という部分が全く意味不明である。
もし「感受性」が個人ごとに具体的数値として得られるのであれば、コースの線量などを測定した上で「選ぶ」ことは可能であろう。しかしそのような方法は存在しない。許容被曝線量の上限を決める考え方は、事前に個人差が予見できないからこそ─全員を人体実験しないかぎり真の数値は不明で、その時はもう遅い─統計的な推計によって、最も感受性の高い個人を想定しても影響が最小限になるように安全率をみて限界を定めているものである。これは放射線に限らず、ダイオキシンなど化学物質の規制についても同様である。
たとえばタバコが1日何本までなら生涯で影響が発現しないか、自分についての具体的な数字を予見的に知っている人がいるのか?という問いと同じである。もし勝間氏の発言によるなら、ダイオキシンなど化学物質についても、どれだけ摂取してもよいかは個人ごとの判断によることになる。「事実」を開示しようがしまいが本人が選ぶ基準は存在しないし、まして主催者が判断云々など全くばかげたコメントである。すなわち勝間氏は、今もなお低線量被爆について全く理解していない。講演のテーマは放射線ではないにしても、この状態で福島に出かけること自体が、恥ずかしくないのだろうか。
山本氏のコメントには注目すべき部分がある。「『復興しましたよ』っていうアピールのためだけにそういう行事をするわけですよね。しかも細胞分裂が活発な若い女の子たちを走らせるっていう。僕はそれを中止に追い込みたいんですけど、どうしたらいいですかね」「はっきり言っちゃえば、楽しみにしている人たちが走ればいい。大きな駅伝大会に出るという楽しみがあるわけですよね、自分が選ばれて光栄だっていう気持ちだったとか。その上に監督がいたりして『放射線は問題ない』みたいな話になれば、それはもう走るしかない状況なんです」という。
筆者はすでに5月の段階で、福島県の高校野球部が警戒区域外側で練習を再開したことについて指摘した(*2)。野球はスライディングなど土埃の吸引が圧倒的に多い種目である。隣の自治体では警察官などがまだ防護マスクで捜索活動などをしているのに、警戒区域の線引きをわずかに外れたからといって高校生が土埃まみれで野球をしている─まさか防護マスクで野球はしないだろう─などばかげた光景である。勝間氏も、精神論だけの体育会系バカの指導者と同じか、それ以下の知的レベルしかないのだろう。
(*1)http://news.nicovideo.jp/watch/nw141170
(*2)http://www3.nhk.or.jp/news/html/20110503/k10015689051000.html
JanJanニュース創立から参加している。交通政策・環境政策がテーマ。「政治談議」でなく論理と数字で評価することを重視。


