カルシュの見た出雲地方 (15) 出雲大社

出雲大社 1927年

出雲大社 1927年
佐太神社、日御碕神社とともに出雲の三大社と称される杵築神社(出雲大社)の80余年前の写真が残っている。フリッツは、この地が何故神々の首都なのか、著名で有力な神々が何故ここで祀られているのか。そんなことを考えたに違いない。それには、新興勢力と土着豪族の勢力の権力抗争による古代日本の成立過程が投影されている。カルシュにとって、こうした日本の政治的宗教観を表す神社には特別の印象があったという。自然のなかから生まれた民族を反映する古来の諸々の信仰の対象たる神々が年月を経てゆっくりと調和して統合されてきた巧みな政治的寛容さを見いだしたのであろう。カルシュは神社の造りに大きな関心をもっていた。聖なる領域である鳥居の構えの内側が、古代の人々の神との改まった接触の場と感じたのであろう。すなわち、神々と人々との相互関係に緊張とやすらぎを交互に感じながら自らの心の安住をこの地に見出したのが、カルシュである。古事記によれば、大国主神が天津神に国譲りを行う際に、その代償として、自らの御殿を、太くて深くから支える柱で、千木が空高くまで届く天孫・皇孫の大きな立派な同等の宮殿を求めたので、出雲の多芸志(たぎし)の浜に天之御舎(あめのみあらか)を造った。日本書紀によれば垂仁天皇の御代に国家的な事業として千尋の縄を用い、太き柱を高く、厚き板を広く天日隅宮(あめのひすみのみや)を造らせたという。延喜式神名帳には「出雲国出雲郡杵築大社」と記載され、1871年(明治4年)に出雲大社と改称して官幣大社になり、大正時代に勅祭社となった。現在は神社本庁の別表神社となっている。

出雲大社の様子 1927年
伝承に従えば、天津神(天皇)の命によって、国津神(大国主神)の宮が創建されて以来、天照大神の子の天穂日命(あめのほひのみこと)を祖とする出雲国造家が出雲大社の祭祀を担ってきた。出雲国造家は、南北朝時代に分かれた「千家」と「北島」の両家が祭祀を二分していたが、現在は千家家が執り行っている。今日の本殿は1744年(延享元年)に作られた。高さは約24㍍で破格の大きさであるが、かつての本殿は現在よりもはるかに高かったと伝えられている。2000年(平成12年)の調査に際し、境内からは巨大な柱が発掘された。
出雲大社は1968年再来日のとき、カルシュは旧生徒らとともにこの社に参内し、日本との運命的な絆を至聖の神に感謝し、自らの役割に関する満ち足りた想いの終止符を神々から授かったことを自ら語っている。
東京医科歯科大学 保健衛生学研究科教授です。専門は医用生体工学、医療福祉遠隔システム工学です。実際に脳低温制御の自動化システムおよびユーザが特別なソフトウエアと費用を必要としない福祉通信システムの開発・実用化を行っています。

